
山形県立新庄北高校時代、マセた級友とともに(前列左・昭和32年3月)

早稲田大学経済学部の学友とともに(右から2人目、昭和39年) |
私が高校を卒業したのは、昭和三十四年、大学を卒業したのが、三十九年である。東京オリンピックが開かれた年で、日本が最も元気の良い時代であったのだろう。
さて、私の高校時代は山登りばかりしていた。今にして想えば、多感な少年時代だった。初恋もした。片思いでもあった。マセた同級生の影響もあって、一人で山に行き、伊藤整の詩集『雪明かりの路』や『若い詩人の肖像』といった本を読んで、物思いに沈む、ちょっとキザで傷つき易い少年だった。
大学に入ったら、六〇年安保改定による大変な騒ぎで、学校では授業も出来ないような日もあったが、ノンポリ派で遊んでばかりいたような気がする。勿論、酒も麻雀も覚えた。酒は早稲田の周辺か、新宿である。新宿の西口には淀橋浄水場がある他は何もなく、高層の建物等は全くなかった。駅の周辺は焼鳥屋ばかりが線路沿いの道の両側に沢山並んでいて、学生の私にはとても安くて美味しかった。早慶戦のあった夜には安いスタンドバー(駅の東側)等で飲んでいると、見知らぬ先輩だと言う人から奢ってもらったものである。早稲田の周辺も現在とは随分違っていた。地下鉄等は勿論なく、雀荘が沢山あって学生達は朝からそこに屯していた。友人にも恵まれた。同期には、ちょっとうるさい政治評論家の鈴木棟一、近藤剛・道路公団総裁、『アエラ』の田岡俊次、北國新聞社長・飛田秀一ら。学生時代は色々な事があったが、早慶の六連戦が忘れられない。
ロバート・ケネディが大隈講堂で学生とやりあった事、そして会場に入る彼と握手する幸運な思い出もある。そして、新聞の号外で米大統領ジョン・F・ケネディの非業の死に大きな衝撃を受けた。
卒業後は直ぐに郷里に帰り、中学校で産休代理の教師、町役場の嘱託職員、町議等を経て町長になった。独身で、まだまだ青春時代といった感じだっただろう。三十三歳で結婚した。青春時代とは結婚までの事だろうが、サムエル・ウルマンが言っているように、人生のある時期ではなく、心の持ち方をいうのであって、しかも「人生の深い泉の清新さ」をいう。
とすれば、六十三歳の私でも、まだ青春だと断言主張したい。皆に笑われそうではあるが。
兎にも角にも、青春万歳と言っておこう。
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