国会議員リレーインタビュー
「国会議員web数珠繋ぎ!」に登場しました


月刊「自由民主」2004年3月号で紹介されました。

私の青春時代
青春とは「人生の深い泉の清新さ」



山形県立新庄北高校時代、マセた級友とともに(前列左・昭和32年3月)



早稲田大学経済学部の学友とともに(右から2人目、昭和39年)

 私が高校を卒業したのは、昭和三十四年、大学を卒業したのが、三十九年である。東京オリンピックが開かれた年で、日本が最も元気の良い時代であったのだろう。
 さて、私の高校時代は山登りばかりしていた。今にして想えば、多感な少年時代だった。初恋もした。片思いでもあった。マセた同級生の影響もあって、一人で山に行き、伊藤整の詩集『雪明かりの路』や『若い詩人の肖像』といった本を読んで、物思いに沈む、ちょっとキザで傷つき易い少年だった。
 大学に入ったら、六〇年安保改定による大変な騒ぎで、学校では授業も出来ないような日もあったが、ノンポリ派で遊んでばかりいたような気がする。勿論、酒も麻雀も覚えた。酒は早稲田の周辺か、新宿である。新宿の西口には淀橋浄水場がある他は何もなく、高層の建物等は全くなかった。駅の周辺は焼鳥屋ばかりが線路沿いの道の両側に沢山並んでいて、学生の私にはとても安くて美味しかった。早慶戦のあった夜には安いスタンドバー(駅の東側)等で飲んでいると、見知らぬ先輩だと言う人から奢ってもらったものである。早稲田の周辺も現在とは随分違っていた。地下鉄等は勿論なく、雀荘が沢山あって学生達は朝からそこに屯していた。友人にも恵まれた。同期には、ちょっとうるさい政治評論家の鈴木棟一、近藤剛・道路公団総裁、『アエラ』の田岡俊次、北國新聞社長・飛田秀一ら。学生時代は色々な事があったが、早慶の六連戦が忘れられない。
 ロバート・ケネディが大隈講堂で学生とやりあった事、そして会場に入る彼と握手する幸運な思い出もある。そして、新聞の号外で米大統領ジョン・F・ケネディの非業の死に大きな衝撃を受けた。
 卒業後は直ぐに郷里に帰り、中学校で産休代理の教師、町役場の嘱託職員、町議等を経て町長になった。独身で、まだまだ青春時代といった感じだっただろう。三十三歳で結婚した。青春時代とは結婚までの事だろうが、サムエル・ウルマンが言っているように、人生のある時期ではなく、心の持ち方をいうのであって、しかも「人生の深い泉の清新さ」をいう。
 とすれば、六十三歳の私でも、まだ青春だと断言主張したい。皆に笑われそうではあるが。
 兎にも角にも、青春万歳と言っておこう。


山形県金山町長時代、成人式に出席
(中央・昭和49年)



女性のための政治情報誌「りぶる」2003年12月号で紹介されました。
あの時・あの頃・思い出の一枚
家族とは、 親子とは、 曰く言い難い 面白い物


 これは我が家の家族写真である。小生41歳、家内40歳、長男8歳、娘6歳、昭和57年(1982年)に撮ったものである。
 私は、26歳から選挙に出て、9回選挙を経験した。この写真のころは故郷山形県金山町長してよき時代を過ごしていた。
 私も家内も元気、子どもも元気、子ども達は日一日と成長するような気さえする子育ての楽しい時期、長男は小学3年生にしては体が大きくよくキャッチボールの相手をした。私の目から見るとかなりスピードがあり、これはヒョッとしたら野球選手になれるかと、親馬鹿これ極まれりともいうべき、期待もした。
 また娘は利発で物覚えが早く(この年齢はだれでもそのようだとは後で知ることとなったが)これは秀才だ、一生懸命に勉強させろと家内に督励したりもした。ああ、あれから幾星霜、この子たちも長じて今や27、28歳にもなった。
 私の一方的な理不尽な期待にはもちろん反して、普通の人である。長男は大学に入るのに2年、出るのに5年かかった。しかしまだまだ親馬鹿にも大器晩成と自らにいい聞かせている。
 娘は親の反対を押し切って学生結婚して2児の母。それでもまだまだ親馬鹿にも、かわいい娘なのである。
 家内は昨年胃を全摘、子育て疲れも選挙疲れもあろう。
 昔日の若さは戻らない、それは私も同様である。家族とは、親子とは、なかなか曰く言い難い、面白いものがある。